私は気が弱い、無職だ。気が弱いから無職になったともいえる。
とにかく人の目、感情が気になってしまう。
私と一緒にいて楽しかったかな?この服装、時と場に合っているか?今気に障ることを言ってしまったか?この飲み会、うまく立ち回れるかな?
程度が低く、あらゆることを不必要?に不安がる。いい年して情けないおじさん像に成り果てており、反吐が出る。
気の弱さは損に直結することが多い。プライベートの交友関係、ビジネス、いずれにおいても。今考えると杞憂だったな、チャンスを逃したなと思うこと、多大にある。
行動することを躊躇しがちなのも現代社会では致命的だろう。
でも、悪い事ばかりじゃなかった。
「三つ子の魂百まで」
私は幼稚園の入園児、人一倍大泣きし、母親にしがみついて離れなかったそうだ。入園式の写真でも私だけが母親にべったりだったらしい。
私は物心ついたころから、母親にべったりしていたという記憶はないが、とにかく不安がる子供だったようだ。
残念ながらこの気質は今現在の私にもしっかり反映されていると観念した。
なんでこんなひどい事言うの?
小学生時代、今でも覚えている。友人間で遊ぶ約束をしていた際、「お前以外な」と言われた言葉。
私は、「そうか、ごめん」とだけ返したと思う。
別に特別仲が良かった友達でもなかったし、その子にいじめられていたわけでもない。
ただ、小学生ながらに、何故これほど無神経なことを言うのだろうと驚愕したことを覚えている。もう少し気が使えるのではないか、と。
私は親に大事に育てられたと思う。ゆえに外界から邪見に扱われることに慣れていない。これは今でもであるが。
また、理由はわからないが、最低限の道徳感を育み成人したと自負したい、多分。
世の中は、私にとって殺伐としすぎているように思う。
わかっている、子供の無邪気さも残酷さも仕方がない部分がある。
大人であれば、あの人がイライラしている、冷たい言葉を投げかけるのにも理由がある。必ず背景がある、相手の立場にたつとその言葉の意味が理解できるのかもしれない。
それでも、世界には優しさが、足りない。
気が小さいことが生んだ評価
私は退職にあたり、お世話になった人に挨拶周りをした。
その際に感じたのは思ってもいなかった他者からの言葉であった。
「優しい」「助けられた」「笑顔をありがとう」
うわべだけの一言、二言だったかもしれない。それでもそんな言葉を各所で頂いたのだから、ある程度信憑性はあるのだろう。
思いもしなかった人からも声をかけられ、餞別を頂いた。
私はただ、気にしていただけ。気を損ねないようにしていただけ。それだけだったと思う。でも、少なからず他者の助けになれていたのであれば心が救われた。
今、気が小さい事で苦しんでいる方がいれば言いたい。
苦しさは続くかもしれないけど、その気の小ささ、繊細さが誰かの助けになることがある。
私たちはもう少し自信をもっていいのかもしれない。
そんなことが言いたかった。